文化財

金剛寺には、天然記念物である
青梅 < あおうめ > をはじめ、
国の重要文化財、都、市の有形文化財等
多数の文化財を所有しています

天然記念物

金剛寺の青梅
<こんごうじのあおうめ>

僧正門をくぐると左に鐘楼、手前に池の水が流れ、正面に本堂があり、その中庭に19本の石柱で囲まれた「将門誓いの梅」の古木があります。この梅の木の実は、いつまでも青々として熟さず、実が落ちないことから青梅という地名の発祥になったと言われ、大正11年(1922)に「金剛寺の青梅あおうめ」として府(都)の天然記念物に指定されました。

国の重要文化財

絹本着色如意輪観世音像
<けんぽんちゃくしょくにょいりんかんぜおんぞう>

鎌倉時代の仏画の名品で、昭和32年に国の重要文化財に指定されました。
画面中央に、金箔金泥が施された如意輪観音坐像が、六本の手を持ち宝冠を頂いた姿で描かれています。背景は、下部に山と樹木と合掌する童子が、上部に山容と樹林が彩色されて配され、さらにその上方に金箔金泥の彩雲が描かれています。
画面周囲の描表装には、金銀諸種の彩色で、散華・小鳥・宝輪が細密に描かれています。また軸金具も、蓮華・唐草の精巧な金透彫が施された鎌倉期の優品です。
現在は画の劣化をふせぐために非公開です。

如意輪観世音画像軸木
<にょいりんかんぜおんぞうじくき>

この軸木は二箇の半筒が合わさっていて、その内に重要文化財指定の木版刷の両界曼荼羅が収められています。
軸内には「乾元元年1302年七月廿日 金沢住僧戒円房祐範之本尊(かいえんぼうゆうはんのほんぞん)と墨書があり、もと金沢称名寺の祐範の守本尊であったが、祐範夢に感ずるところあり当山へ寄進したものと伝えられています。

都の有形文化財

僧正門
<そうじょうもん>

天保12年(1841)の火災により、ほとんどの建物が消失してしまいましたが、僧正門(都有形文化財)と鐘楼は当時のまま現存しています。僧正門は、建築当時は朱色に塗られていたようで俗に赤門ともいわれています。細部は桃山時代の様式をよく伝えています。

絹本着色高野四所明神図
<けんぽんちゃくしょくこうやししょみょうじんず>

お大師さまが開創の地を探していた時、白と黒の狗を連れた狩人が現れて、高野山へと導きました。狩人は高野御子神の化身で、古くからこの地に祭られてきた丹生都比売(にうつひめ)神社の四祭神の一神でした。「高野山」の名は、高野御子神への感謝をこめてつけられたと伝わります。お大師さまは、壇上伽藍建設に先立ち「御社みやしろ」を建て、丹生都比売神社から神を迎え高野山の守護神として祭りました。
様式などから南北朝時代の作と推定されています。高野四所神の画像として類例のまれな図様と唐装束が珍しい、神仏習合の貴重な美術品として、昭和40年に都有形文化財に指定されました。
絵は保存上の理由から非公開となっています。

絹本着色田辺清右衛門惟良画像
<けんぽんちゃくしょくたなべきよえもんこれよしがぞう>

清右衛門は、もと武田家の旧臣でしたが、天正10年(1582)主家没落の後、北条氏照に仕え、市内日向和田の楯(鰭)の沢に館を構えて住んだ地侍です。 北条滅亡後は、子・平四郎や孫の宇太夫ともに徳川家に仕えています。 楯の沢にあった清右衛門邸の遺構(門)は、孫の代に移築され、日向和田にある明白院の山門になっていると伝えられています。
この画像は、没後まもないころの製作と推察され、江戸時代初期の武士の風俗を示す資料として、また青梅地区に密接な関係のある人物の画像として、大変貴重です。 そのため昭和40年に都有形文化財に指定されました。 画像は保存上の理由から非公開となっています。
絵は保存上の理由から非公開となっています。

出展『特別展・青梅の名宝』より

青磁鉢

古来「雨乞いの鉢」といわれ嘉永4年(1851)に箱を作って収めた旨の墨書があります。また、室町時代末期、小田原北条氏から同寺の良深僧正に贈られたと伝えられています。 さらに永禄(1558~1569)年代に、金剛寺で良深僧正が、龍索(青色のこよりで龍蛇の形を作ったもの)二つを水盤に備えて雨乞いをしたところ、大風が吹き豪雨となりました。 この時一つの龍索が風雨に乗じて、多摩川の天ヶ瀬淵へ入水したため、残りの龍索の飛び出しを恐れ、水盤に網をかけました。 この水盤が金剛寺の青磁鉢であると伝えられています。昭和40年に都の有形文化財に指定されました。

絵は保存上の理由から非公開となっています。

金剛寺聖教典籍類
<こんごうじしょうぎょうてんせきるい>

・「金剛寺聖教」は789点に及ぶ真言宗関係の経典・典籍類です。これらはすべて写本ですが、原本が散逸してしまっているものも含まれており、中世関東の真言宗に関する資料として貴重なものです。都の有形文化財に指定されています。
・「灌頂文要集」は、灌頂(仏教で行われる儀式)に関するさまざまな要文を条目別に収録したものです。奥書から、文明11(1477)年正月に書かれたものを永禄(1569)年に書写したものであることが分かります。
・「三宝院伝法灌頂聞書」は東密三宝院流伝法灌頂の際の作法等に関する口説を収録したものです。原本は応永24(1417)年に記されたもので、金剛寺本は永禄10(1567)年9月に書写されました。
・「反音私抄」は、仏教で用いられる梵語(古代インドのサンスクリット語)を表記するのに用いられた梵字に関する書物である悉曇十八章について記されたものです。片仮名によって梵字の反切(文字の発音を表したもの)を記し、十八章に関する考証を加えています。

宝院伝法灌頂聞書(広報おうめより)

市の有形文化財

寺領安堵状
<じりょうあんどじょう>

青梅とその周辺を鎌倉時代より支配してきた豪族三田氏は、北条氏によって永禄6(1563)年に滅ぼされます。その後、この地を治めた滝山城主・北条氏照から特別に塩船寺・青梅両寺(金剛寺・梅岩寺)に税の免除を約束したものです。この文書は三田氏の衰退と北条氏の勢力拡大の様子がわかる貴重な資料として、昭和39年に市の有形文化財に指定されました。

その他 文化財

扇勾配の石垣
<おうぎこうばいのいしがき>

僧正門に並ぶ「鐘楼の石垣」は古い時代に玉石で積まれました。扇を思わせる雅やかなカーブは積み上げた石の重みをお互いに分散しあう重量計算からの設計で、また登るほどに急こう配になるこの設計は城郭などの大規模建造物にて、敵を寄せ付けないという目的もあったといいます。金剛寺の石垣は全体を見まわしつつ、細部も眺められるのが特徴で、古い密教寺院構築の伝承を今に伝えるものといえると思います。

仏足跡

インドより渡来。壺阪寺住職(つぼさかでら)、常盤勝憲氏(ときわしょうげん)よりの寄贈。

金剛寺の鐘の銘文(拓本)

寛文6年(1666年)、この地方の代官、高堅四郎左衛門(たかむらしろうざえもん)とその配下や青梅の名主以下、有力な町人により寄進された名鐘。
刻まれた文は、京都の名利智積院の住職の作です。
開基の平将門の青梅伝説を伝える、最古の記録であるとともに、青梅町の成立を語る重要な史料でもあります。
この鐘楼の鐘は鐘銘によりますと近世初期の貴重なものとして彼の戦時中の軍への鐘の供出時代にも取り外しを免れた格調高い鐘です。

三田氏位牌

江戸時代初期の寛永4(1627)年に三田氏を弔うために作られ、納められた物です。平将門の末裔を称していた三田氏は、古くから青梅地域を治めていた武蔵国の有力な国衆(国人領主)でした。戦国時代には青梅地域だけではなく、周辺地域にも勢力を広げていました。しかし、永禄4(1561)~6(1563)年ごろに北条氏に攻められ、三田氏は滅亡してしまいました。三田氏の滅亡から60年以上を経た寛永4年、旧臣であった野口刑部少輔秀房が旧主を弔うためにこの位牌を作り、金剛寺に納めました。

金剛寺開山第一世弘法大師尊像

当山開山の際に京都蓮台寺の寛空僧正が自刻された弘法大師像です。